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きょうのことば

きょうのことば - [1998年06月]

信心の人は、その心すでに浄土に居す。

「信心の人は、その心すでに浄土に居す。」
親鸞 『御消息集(ごしょうそくしゅう)』『真宗聖典』591頁

 浄土というと、どんな世界を思い浮かべられるでしょうか。一面に花が咲いている場所や、願いごとが何でもかなう理想郷を想像する人もいるかもしれません。また、そんな世界などあるはずがないと思う人もあるでしょう。しかし、いずれにしても、浄土とは自分が今生きている現実とは別の世界であることが前提になっていないでしょうか。
 日本の歴史を見ても、浄土は死んだ後に生まれる世界としてとらえられてきたことが多いように思います。ですから浄土と言えば、すぐに「あの世」とか「他界」といった観念と結びついてきました。それは「死んだらどうなるのか」というような不安や怖れから欲求されたものでした。また、さまざまな苦悩を抱えた現実を生きる中で安らかな世界を夢見てのことでもあったのです。しかしながら、死後に期待されるような浄土が、私たちにとって本当の安らぎになるでしょうか。
 表題にあげた言葉は、親鸞(1173~1262)の手紙に出るもので、中国の善導(613~681)の著作に依りながら述べられた言葉です。その手紙の中で親鸞は、浄土が死んでから生まれ変わる世界ではなく、現実の人生に密接に関わっていることを述べています。「浄土に目覚めた人は、身はこの世を生きながら、心はすでに浄土に居す」と。
 人間は物事を見るときに、必ずといってよいほど優劣や善悪、有用無用といったものさしで計る性質をもっています。現実を見ているといっても、実際には自分のものさしに当てはめて解釈しているにすぎません。そのため、好き嫌いを言うだけにとどまらず、場合によっては、人の生きる値打ちの有無を計ることすら起こります。ところが、このようなものさしでは決して計ることができないのが、生きていることのかけがえのなさなのです。
 人間のものさしでは決して計れない世界、それを仏教は浄土として教えています。経典に「青き蓮華には青き光、黄なる蓮華には黄なる光、赤き蓮華には赤き光、白き蓮華には白き光」と説かれているように、どんな存在も何物にも代えることのできない尊さがあるのです。そのような世界に目覚めるとき、ものさしで計っていたことがどれほどいのちを傷つけていたかを知らされるのです。と同時に、自分のものさしへの固執から初めて解放され、浄土のいのちを生きる者となるのです。
 「心はすでに浄土に居す」とは、現実の人生から目をそむけることではありません。浄土のいのちに目覚め、浄土のいのちを生きる、これが現在のこととなるのです。それ故に親鸞は言うのです。「信心の人は、その心すでに浄土に居す」と。

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