ここからサイトの主なメニューです

Home > 読むページ > きょうのことば > 癡によりて愛あれば、すなわち我が病生ず。

きょうのことば

きょうのことば - [1998年05月]

癡によりて愛あれば、すなわち我が病生ず。

「癡によりて愛あれば、すなわち我が病生ず。」
『維 摩 経(ゆいまきょう)』 「文殊師利問疾品(もんじゅしりもんしっほん)」『大正大蔵経』第14巻544頁

 先日、ある新聞の読者投稿欄に次のような川柳が載っているのを見ました。

「手に入ら ないから欲しい だけのもの」
この川柳は私たちが持っている様々な欲望の本質をついているように思います。私たちは、ある時には欲望それ自身を、生きていくための糧にしているような場合もあります。しかし別の時には、その欲望が自分の思うとおりに満たされないことで様々に悩み苦しむこともあります。そればかりではなくて、それが自分の思うとおりに満たされたとたんに、むなしさを感じる場合さえあるのではないでしょうか。先の川柳は、そうした私たちの心の在り方を正直に語っているように思われます。欲望は、満たされなくても、満たされても苦悩の原因になるのです。それでは一体何が私たちの苦悩の本当の原因なのでしょうか。
 表題に掲げた『維摩経』の一節の中では、私たちの欲望は「愛」と言われています。これはどのようなことを表しているのでしょうか。私たちは、「何か満たされない」とか「何かを求めている」と実感しながら生きています。しかし、これは裏から見れば、どうして満たされないのか分からない、何を求めて生きているのか分からない、と言っているのと同じではないでしょうか。何を求めているのか分からなければ、どのようなものを手に入れてみてもそれによって満たされないのは当然です。そして、その満たされなさがまた別の何かを求めていくことになります。このようにして次から次へと別のものを求め続けていくことになるのです。そして、決して満たされることがありません。このような有り様は、まるで渇いたものが限りなく水を求めるようなものなので、これを「渇愛(かつあい)」と言います。それ故、文中では私たちの欲望を「愛」と言うのです。そしてそれは「癡」によると言われています。「癡」とは、私たちの心の底にある真理に対する無知のことであり、「無明」と言われることもあります。一体、私たちは何を手に入れれば本当に満足できるのでしょうか。それが分からないから決して満たされることがないのであり、このような分からなさを「無明」と言うのです。つまり、私たちの様々な苦悩は、欲望そのものに原因があるのではなく、どのようになれば満足できるのかが分からないことに原因があるのです。
 表題の一節では、このような私たちの生き方そのものを「病」と言い、すべての人の共通の課題であることが、維摩詰(ゆいまきつ)という一人の在家仏教者の口を通して語られているのです。

Home > 読むページ > きょうのことば > 癡によりて愛あれば、すなわち我が病生ず。

PAGE TOPに戻る

ここからサイトの主なメニューです