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きょうのことば

きょうのことば - [1998年02月]

仏法に厭足なければ、法の不思議をきく。

「仏法に厭足なければ、法の不思議をきく。」
『蓮如上人御一代記聞書』『真宗聖典』897頁

 すこぶるお腹が空いているときは、食べ物のことばかりを考えてしまいます。そんなに強い関心事であった食べ物に対しても、満腹になるまで食べた後は、ほとんど関心がもてなくなります。そのように自分が関心を持って求めている物事でも、手に入った後はそのことに興味や関心を失ってしまうことがあります。
 その一方で、接すれば接するほど、ますます深く関心を引かれていくような物事もあります。例えば、読書や音楽鑑賞などで自分が感動する作品に巡り会えたときなどは、読めば読むほどもっと読みたくなるし、聴けば聴くほどさらに聴きたくなります。たとえ仕事等で疲れていて何もしたくないような時でも、そのような作品ならかえって接してみたくなるものです。
  それでは、人が自分の歩んでゆく道を教えの中に尋ね求める場合はどうなのでしょうか。その道が見つかったら、教えに対する関心が薄れていってしまうのでしょうか、それともますます関心が深まってゆくのでしょうか。そのどちらが本当に仏法を聞いていくということなのでしょう。
 表題の言葉は「仏法には厭き足るということがないので、仏法の不思議を聞いていくようになる」という意味です。これについて、『蓮如上人御一代記聞書』のなかでは、次のような解説がなされています。

  たとえば世間でも、自分の好き好むことであるなら、知っても知っても、もっと知りたいと思って、人に問う。好きなことならば、聞いても聞いても、もっと聞きたいと思って、これで十分であるというように飽きるということがない。まして仏法のことは、何度聞いても飽きるということがないものなのであり、知っても知ってももっと知りたいというものなのである。仏法のことは、いくたびも、いくたびも、人に問い尋ねて、明らかにしてゆくのである。(現代語訳)
  仏法とは、もうこれで十分であるというように飽きるようなものではありません。だから仏法のことは、いくたびも、いくたびも問い尋ねていくことが大切なのです。
 確かに、人が教えに出遇うということにおいては、そこに喜びや充足感があるには違いありません。けれども、それで関心が薄れていくような充足感ではなく、聞いていくということによってますます尋ねていきたくなるような充足感なのです。自分の生涯をかけても明らかにしていきたい奥深い世界に出遇うということなのです。そのような出遇いを通して教えを聞いていく。そのことにおいて、自分の勝手な思いを越えた仏法の世界が身に響いてくるのです。
 だから、人が教えに出遇うということは、出遇ったということが終着点となるようなことではなく、本当の意味での出発点が明らかになるということなのです。

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