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きょうのことば

きょうのことば - [1998年01月]

沙門は欲望を遍知して、つねに自由人なり。

「沙門は欲望を遍知して、つねに自由人なり。」
『南伝大蔵経』『相応部経』『南伝大蔵経』第12巻 相応部教典一 65頁

 この言葉はある神の「欲望を遍知して(知り尽くして)つねに自由なる人とは誰か」という問いに対する釈尊の答えです。釈尊はここではこの言葉を説明されていません。沙門とは釈尊が出家された当時、インドの宗教者あるいは思想家を二分していた一つのグループの呼称です。正統派の宗教者はバラモンと呼ばれ、非正統派の人々はひとまとめにして沙門と呼ばれました。沙門たちは師を訪ね道を求めて各地を放浪(遊行)し、定住することがありませんでした。それは家族や係累の束縛を離れた自由な生活でした。釈尊が出家されようとしたときに、その決意を促したものは一人の沙門の自由な姿であったと言われます。それでは彼の求めた自由とは、どういうものだったのでしょう。よく知られているように、ゴータマの出家の動機を述べるものに「四門出遊<しもんしゅつゆう>」という物語があります。
 ゴータマは、あるときカピラ城の東門から出かけんとして老人に会い、あるとき南門から出かけんとして病人に会い、またあるとき西門から出かけんとして死者に出会い、苦の逃(のが)れがたきを感じました。しかるにあるとき北門から出かけんとして苦を感じさせぬ沙門の姿を見、苦を克服する道あることを知り沙門たらんと決意したと言われます。
 この物語からゴータマの自由になりたかったものが老・病・死という苦であったことが分かります。老・病・死は人生における避けようのない事実です。しかもそれらは人生の折々に生ずる様々な苦しみや悩みと根底で繋(つな)がっているように思われます。つまりゴータマは人生のあらゆる苦悩から自由になりたいと願ったのです。それが彼の出家の動機だったのです。
 「すべては苦である」(一切皆苦)という釈尊の教えによる限り、人の世は苦に満ちておりそれを避ける道はありません。したがって、それらから自由になるということは、老・病・死を初めとする様々な苦なるものごとを何らかの方法によって回避することではありません。そうではなくて、苦なるものごとは苦として認めなければなりません。しかし、われわれはそうとは認めず、苦なる人生を楽であるかのごとくに思い誤り執着し、その執着にとらわれます。苦なるものを苦と認めないのは、それをなんとか楽なるものと見たいという欲望がはたらくからです。その欲望を遍知すること、つまり欲望の取り除き難いことを身に徹して知ること以外に欲望を終熄させる方法はない、と釈尊は教えます。そのように欲望を遍知するとき、人は欲望を終熄させます。苦を苦と認めて楽と執着しなくなるとき、苦にとらわれてむやみに恐れることはなくなります。それが釈尊の求めそして獲得した自由だったのです。

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