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きょうのことば

きょうのことば - [1997年03月]

人生において事実は、本当の意味で重要ではありません。事実を通して人がどういう人間になったかだけが、重要なのです。

「人生において事実は、本当の意味で重要ではありません。事実を通して人がどういう人間になったかだけが、重要なのです。」
エティ・ヒレスム『生きることの意味を求めて』(晶文社)30頁

 私たちは人生の途上において、様々なことに出会います。私たちの生きる中味は、日々の具体的な出来事の積み重ねです。このことは、どのような人にあっても同じ事でしょうが、私たちに与えられた現実をどのように受け止め、自分がどのような人間になるのかということは、すべて一人ひとりの人間にゆだねられています。ここに紹介したエティ・ヒレスムは、ナチスによるユダヤ人虐殺の苛酷な時代に青春を送り、アウシュヴィッツで亡くなったユダヤ人の女性です。彼女は、自分の当面した現実をたんに告発するのではなく、そこから多くのことを学びとっています。

わたしたちは、どんな状況のもとでも、人生から建設的なものを抽き出せると思います。しかし、それはわたしたちが、最悪の条件下であろうと、それから逃げだそうとはしない場合にかぎると言ってもよいでしょう。
 彼女は実際にたいへんな状況に直面したのですが、そこから逃げることなく、その事実を自分の生きる中味として受け止め、そのなかで自分にできることを追求し実践していったのです。
ときどきわたしは、よくても悪くても、あらゆる新しい状況は、新しい洞察力でわたしたちをゆたかにしてくれると思います。
 生きるということは、何か華やかな夢を見続けるということではなくて、私が日々出会う事実から学んでいくことなのでしょう。しかし、私たちはいつも自分の現実を引き受けることなく、将来の幸福を待ち望んでいるようです。自分の現実が自分の望み通りにならないときは、それを周りの誰かの責任にしたり、自分のいたらなさということで弁解をします。そんなことを繰り返しながら、いつのまにか空しさや不安のなかで時を過ごしてしまいます。何かが足りないのでしょうか。
人は、どこに行こうと生活の基本的題材は同じであるし、この地球のいかなる地点においても自分の人生を有意義に生きることはできる……さもなければ死ねる……ということを発見するのです。北斗七星は、一国の中心にある大都市を見下ろすときと、ちょうど同じように、信頼をこめて遠い小村をも見下ろします。
 ヒレスムがその苛酷な状況を通して見いだしたことは、時代や状況によって、人々の当面する生活の内容や形は違うとしても、「人生を生きる」ということ自体は同じであり、どのような状況であろうと、誰もが有意義に生きることができるということです。自分自身を生き尽くしていくことが、「生まれた」ということにおいて、一人ひとりの人間に与えられている課題です。与えられた現実を放棄することなく、生きていくことが、人間のもっとも切実な要求です。
 私がどのように思うにしても、すでに思うに先立って生きているのであるから、目の前にある事実に立ちかえって、誰も代わることのできない、かけがえのない人生において、自分が自分に成ること、そのことが誰においても共通の大切な問題なのです。

※エティ・ヒレスム(1914~1943)…オランダ生まれのユダヤ人。アムステルダム大学で法学の学位を取得、他にロシア語、心理学を学ぶ。1942年自ら志願してヴェステルボルク収容所へ赴き、収容所の人々のために働く。1943年11月アウシュヴィッツで死去。戦後、手紙と日記が公になり出版された。

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