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きょうのことば

きょうのことば - [2009年02月]

われわれは百合と鳥とを沈黙の教師として観てゆこう。われわれはかれらから沈黙することを学ぼう。

「われわれは百合と鳥とを沈黙の教師として観てゆこう。われわれはかれらから沈黙することを学ぼう。」
キルケゴール(『キルケゴール著作集』第18巻、182頁)

 冬の鴨川には、渡り鳥のゆりかもめがやってきます。曇り空の下で、白く小さなから だをふくらませて寒さの中でじっとしている姿は、京都の冬の風物詩です。冬という静 寂に満ちた厳しい季節も、その後にかならず草花が芽吹く春が来ると信じているからこそ耐え過ごすことができるのではないでしょうか。

 ところで人間の世界に目を転じてみると、自然界とは対極にあるような騒がしさに満ちていることに気づきます。毎日届けられる新聞、無数のメールや電話のやりとり、多種多様のテレビ番組などを見れば、現代はことばが氾濫している時代であるということができましょう。たしかに、自分の考えを伝えたり、ひとと意見を交わしたりするため に、ことばは欠かせません。言いたいことややりたいことをはっきりと表明しておかないと、それらを実現することはおろか、検討の対象にすらしてもらえないでしょう。まるで、現代において沈黙は「金」ではなく、饒舌こそが美徳であるかのようです。

 このような時代にあって、上のことばはどのような意味をもつのでしょう。野の「百合」と空の「鳥」とは、『新約聖書』に出てくることばです。百合や鳥はなにかを求めて 声高な要求などをすることなく、静かに生きている存在です。それらが立派に生きているというまさにその事実から、百合や鳥に向けられ、また同じく人間にも向けられている神の愛というものを知ることができるという意味です。

 これらのものを「沈黙の教師」とたとえる表現は、キルケゴール(1813-1855)が独自に加えた解釈です。キルケゴールが著作活動をしたのは19世紀のコペンハーゲンです。こういうとずいぶん昔の遠い国のことのように思えるかもしれませんが、都市生活のスタイルは現代の私たちのものとさほど変わらない状況にありました。つまり、新聞やその 他の出版物が数多く生み出され、街角では人々がうわさ話の花を咲かせているような、 ことばが氾濫する時代でした。

 しかし、ことばが氾濫する世において「ことばを発しない」ということがただちに 「何も語らない」ということにはなりません。沈黙はひとつの態度表明であります。沈黙は神への畏れを表すと同時に、その沈黙の中に多くの感謝のことばが口をつぐんでいる、とキルケゴールは述べます。ことばの洪水の中にいると沈黙の「語り」が聞こえにくくなりますが、沈黙しつつもしっかりと生きる野の百合と空の鳥は、忙しく騒がしい時代において私たちにかけがえのない生き方を教えてくれているのでしょう。

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