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きょうのことば

きょうのことば - [2009年01月]

得難くして移り易きはそれ人身なり。発し難くして忘れ易きはこれ善心なり。

「得難くして移り易きはそれ人身なり。発し難くして忘れ易きはこれ善心なり。」
最澄『願文(がんもん)』(『日本思想体系』第4巻p.286)

 新しい年が始まりました。新年をむかえ、いろんな希望が次々と生まれてきていることでしょう。これまで達成できなかったことに対しても、「今年こそは」と期待もふくらみます。しかし、松の内が過ぎる頃になると、「結局今年もダメなんじゃないか」と、後ろ向きの考えが頭をもたげてきます。何だか毎年同じことばかり繰り返しているようで、無力感に覆われてしまいます。

 785年に奈良東大寺で一人前の僧侶となった19歳の最澄(767-822)は、『願文』を著しました。その中で、自らを「愚中(ぐちゅう)の極愚(ごくぐ)、狂中(おうちゅう)の極狂(ごくおう)、塵禿(じんとく)の有情(うじょう)、底下(ていげ)の最澄」と表現しています。具体的にどのような事件があったのかは分かりませんが、このような捉え方は自己否定の極みを表していると言っても良いでしょう。その最澄は、人間について標記のように言います。

人間として生まれることはたいへん難しく、しかも生きていられるのはわずかな間に過ぎない。善いことを求める心を起こすことはたいへん難しく、しかもすぐに忘れてしまう。
 ここでは最低限のことすら不確実なものとして描かれているように見えます。しかし、最澄は、この一見悲観的にしか見えないところが、実は既に大きな到達点であるということを見出します。既に人間として生まれ、しかも現に生きています。クヨクヨしているのは、善いことを求め、しかもまだその心を忘れていないからです。人間として生まれることも、善いことを求める心を起こすことも、たいへん難しいことです。そんな難しいことを既に達成している自分自身を、最澄は見出したのでした。そして、このチャンスを逃してはならないと、すぐに比叡山にこもり、修行に励みます。

 私たちは一旦マイナスの側面が目につくと、すべてマイナスの方向にばかり考えるようになってしまいます。しかし、そのマイナスのことは本当にマイナスでしかないのかをしっかりと確認しなくては、大切なことを見落としてしまいかねません。悲観的にしか見えなかったことが、実はとても貴重な到達点であることに気付くかもしれません。その到達点は自分自身の大きな可能性をも示しているのです。

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