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きょうのことば

きょうのことば - [2008年05月]

諸の仏・如来は、但、菩薩のみを教化したもう。

「諸の仏・如来は、但、菩薩のみを教化したもう。」
『法華経』「方便品」(『法華経』上 岩波文庫 p.90)

 年度はじめの慌(あわ)ただしい時期を過ぎて、5月初旬の連休期間は、ゆっくりと自分自身や周囲を見直すいい機会です。当初は大きな期待に胸をふくらませていました。「あれもしたい、これもしたい」、「あれもできるだろう、これもできるだろう」と、さまざまな可能性を感じていました。しかし、振り返ってみると、いくつか当初の目論見(もくろみ)が外れたことに気付きます。「したいこと」「できると思っていたこと」の多くが「できないこと」だと分かってしまうことがあります。そんな時には、自分に可能性を感じられなくなってしまうかも知れません。

 ところが、『法華経』というお経では、どのような人も最高の可能性を持っていると言います。私たち一人ひとりには能力や環境にさまざまな違いがありますが、最終的に最高の価値を実現する可能性を持っているという点で平等であると説くのです。上に挙げた言葉はその一節です。

すべての仏は、ただ菩薩だけを教え導かれます。
「仏」とは最高の価値を実現した人です。「菩薩」とは「最高の可能性を持った人」といった意味です。一見すると、この言葉は、仏のような素晴らしい人は素晴らしい可能性を持った人しか相手にしないということのように思えます。「仏は菩薩以外の人を教え導かれることはない」という意味なのでしょうか。しかし、実際には仏は多種多様な人々を導かれています。つまり、誰もが、そして私自身も、最高の可能性を持つ菩薩である、ということを、この一文は示しているのです。

 そもそも、私たちが当初期待していた「可能性」とはどのようなものだったのでしょうか。その「可能性」は、私と周囲の人々との関係を活性化させるものだったでしょうか。私が利益を受ける代わりに誰かが不利益をこうむるようなものではなかったでしょうか。単に私の欲望を満足させるためだけではなかったでしょうか。それは実現すべき最高の価値を志向していたでしょうか。八方塞(はっぽうふさ)がりに思える現在の状況は、ひょっとすると、単に目指していた方向が間違っていただけなのかも知れません。ちょっと一息ついて、自分や周囲をよく見つめてみると、今まで思いもつかなかったような可能性が自分自身の中にあることに気付くでしょう。

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