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きょうのことば

きょうのことば - [2008年04月]

二人の人間がいてのみ、思考は明晰なものと化すことができる。

「二人の人間がいてのみ、思考は明晰なものと化すことができる。」
E.レヴィナス(『全体性と無限』 国文社p.144)

 4月は、新たな出発の時を迎える人たちの、期待と不安の入り混じった緊張感で日本中が満たされるときです。大谷大学においても、たくさんの学友を新たに迎え、この学(まな)び舎(や)でともに学ぶということの意味にあらためて思いをいたす大切な機会です。

 そもそも、わたしたちが大学で学ぶとはどのようなことなのでしょうか。たとえば、各人の人生設計と適性に応じた専門的な知識、技能の習得は、学びの一つのあり方でしょう。それは、あらかじめ習得したいと欲していることを吸収し、なりたいと望むじぶんになることを目指す学びです。そのためには、教師と学生が学校という同じ場所でともに学ぶ必要はかならずしもありません。

 しかし、新入生の人たちのこころをどこかわくわくさせるのは、そのようにあらかじめ設定され、あとはそれをひたすら吸収するだけの学習でしょうか。ひとが何歳(いくつ)になっても学びへと誘われるのは、そうした学習をするためだけなのでしょうか。

 エマニュエル・レヴィナス(1906~1995)は、現代思想に大きな影響を与えたフランスの哲学者です。冒頭のことばを含む一節で、彼は、学校という場所が可能にする学びは、じぶんに分かることだけを取り込み同化していくような学びだけではないといいます。これまでのじぶんの理解の枠組みには収まらない問いかけに出遇い、戸惑いながらも何かに魅せられるように始まる学びがあるというのです。

 たとえば、友人の言っていることがどうしても分からなかったり、教師が熱心に語る姿にどこが面白いのだろうと不思議に思ったことはないでしょうか。しかもそのひとの語ることばがどうしても気にかかり、それに注意を向け、問いかけようとことばを探したことはありませんか。そのようなことは、二人の人間が居合わせることによってはじめて起きる出来事です。学校での学びの面白さは、そのような出遇いによって、じぶんの尺度のみを信頼する自己中心的な思いが破られ、思考が明晰なものへと展開していくところにあるとレヴィナスはいうのです。

 大谷大学は、「人間とは何か」「自己とは何か」という問いを、一人ひとりに向けられた問いとして大切にしています。つまり、じぶんの枠から一歩外へ踏み出す思考をうながすような出遇いが生まれる場、他者に出遇うことで自己が明らかになっていくような学びの場であることが、この大学に願われているのです。

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