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きょうのことば

きょうのことば - [2006年06月]

念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり。

「念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり。」
『歎異抄』(『真宗聖典』p.627)

 これは、『歎異抄』第2章に語られる親鸞(1173~1262)の言葉です。『歎異抄』は弟子の唯円(ゆいえん)が「わが耳の底にとどまっている亡き親鸞聖人の言葉」を記したもので、いわば親鸞の生(なま)の声が記録されている書物です。

 親鸞の晩年の頃、関東では念仏の教えについてのいろんな間違った解釈がはびこり、深刻な状況に陥(おちい)っていました。思い悩んだ関東の門弟たちは、京都に住まう親鸞にじかに会って問いただしたいと、はるばる京都まで「十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして」、命がけの旅をしてきたのでした。

 そんな門弟たちにたいして、親鸞は師法然(ほうねん)への信順の思いや念仏の伝統を熱く語りかけ、親鸞自らの信心を説き示します。そして、

このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり。〔かくなるうえは、念仏の教えを信じようとも、また捨てようとも、皆さまお一人お一人が、ご自分でお決めなさることです。〕
と語り終えます。それは一見門弟たちを突きはなす冷淡なことばのように思われるかもしれません。しかし、門弟たちの耳には、厳しさのなかにも、親鸞の包みこむような暖かなまなざしが感じられることばであったに違いありません。

 仏教では、教えにふれて変化してゆく人間のありかたを「機(き)」という語で表します。「機」は自らの聞法(もんぽう)や日常のさまざまな体験をとおして変化し深まりゆき、文字どおり「機が熟する」ときに真の教えに出遇(あ)うことができると説かれます。「機」の深まりは個人の意図をこえた不可思議な作用です。親鸞は「煩悩に障(さまた)げられて仏の大悲の光明を見ることはできないが、大悲の光明は瞬時(しばらく)も休むことなくわが身を照らし続けてくださる」(『正信偈』取意)とうたっています。煩悩におおわれ惑(まど)い苦しむ私という「機」にむかって、阿弥陀仏の慈悲の光が絶え間なく働きかけてくださっている、というのです。ここには、誰でもいつかはそれぞれの「機」の深まりのなかで念仏の真実に目覚めてゆくのだという、親鸞の人間にたいする信頼感が表明されています。

 教えとの真の出遇いは他者からの強制によって成り立つものではなく、一人ひとりの歩みのなかで自(おの)ずから選びとられてゆくものです。門弟たちは「面々の御はからいなり」ということばの底に、親鸞のそのような暖かなまなざしを感じとったことでしょう。

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