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きょうのことば

きょうのことば - [2006年03月]

念仏者は、無碍の一道なり。

「念仏者は、無碍の一道なり。」
『歎異抄』(『真宗聖典』 p.629)

 上に掲げた言葉は、『歎異抄』のなかにある親鸞の言葉です。「無碍」とは、さまたげ(碍)がないということですから、「念仏者は、何ものにもさまたげられることのない、ひとすじの大道を歩むものである」という意味になります。大変力強い響きを持つ言葉です。

 自分が歩んでいく道において、何ものにも邪魔をされることがないなら、どんなにいいでしょう。けれども現実には、さまざまなさまたげがあります。私たちは、人間関係、生活問題、健康状態など、多くのさまたげに直面しつつ生きているのではないでしょうか。

 それでは親鸞は、念仏者にはさまたげとなるような問題は何一つ起こってこないと述べているのでしょうか。断じてそうではありません。念仏者として生涯を生きた親鸞の身の上には、実に多くの問題が引き起こってきました。念仏弾圧による流罪、長男の義絶、火災に遭う、などなど。その生涯を眺めてみれば、多くのさまたげのなかにその人生はあったのです。それにもかかわらず親鸞は、「念仏者は、無碍の一道なり」と、きっぱり語っているのです。それはどのようなことなのでしょうか。

 私たちは、自分に起こってきた事柄を、良いことと悪いこと、大切なことと邪魔なこと、そんなふうに分けています。そして悪いことや邪魔なことに対しては、排除しようとしながら生きています。けれども、その良い悪いという分け方は、本当に誤りのないものなのでしょうか。それらは詰まるところ、自分の都合に合うか合わないかという身勝手な判断に基づく分け方ではないでしょうか。その自分の判断に立つ限り、この世は不都合なことであふれていると、歎きつつ暮らさなくてはならないでしょう。

 そのような人間の身勝手さの深い闇を照らし破るものが、仏の智慧(ちえ)の光のはたらきである念仏なのです。その仏の智慧のはたらきを拠(よ)り所としていくとき、どのような問題が起ころうとも、そのことに対しての好き嫌いを超えて、事実を真っ直ぐに受け止めて生きていけるのです。それこそが念仏によって開かれる、何ものにもさまたげられることがない一道なのです、そのことを親鸞は「念仏者は、無碍の一道なり」と示しているのです。

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