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きょうのことば

きょうのことば - [2006年02月]

心の染汚より衆生は汚れ、心が清まることより衆生は清まる。

「心の染汚より衆生は汚れ、心が清まることより衆生は清まる。」
『南伝大蔵経』「相応部経」(『仏教聖典』山口 益編 p.209)

 インドを発祥地とした仏教は、スリランカや東南アジアへと南方に伝わったもの〔南伝(なんでん)〕と、西域地方を経て中国・朝鮮半島・日本へと北方に伝わったもの〔北伝(ほくでん)〕との、二つの流れがあります。そういう中で、パーリ語・サンスクリット語・チベット語・漢語など、各地のさまざまな言語によって釈尊の教えは伝えられています。日本にも、中国で漢訳された経典類が伝えられ、仏教が根づいていったのです。

 上に掲げた言葉は、パーリ語による「相応部経」の中に見られるものです。釈尊は、弟子たちに対して次のように語っています。

「心」が煩悩に染まり汚れるから、「生きとし生けるもの(衆生)」は汚れてしまうのです。それとは逆に、「心」に染めつけられた煩悩の汚れを消し去って
「心」を清浄にすることによって、「衆生」は清浄となるのです。
 この言葉は、南伝の仏教だけでなく、北伝の仏教にも漢訳されて、「心悩むが故に衆生悩み、心浄きが故に衆生浄し」という言葉で伝えられています。これらの言葉は、衆生の現状を言いあてたものです。

 衆生の心は、貪りや怒りや無智などの、根深い煩悩に繋(つな)がれ、そこから抜け出せずに苦悩しています。そのありさまは、犬が革紐で繋がれ、1本の堅固な柱に結びつけられた状況に譬(たと)えられます。何とかして、犬は柱から解き放たれようとします。しかし、もがけばもがくほど、革紐が絡まって柱に接近してしまいます。犬は、立っても歩いても座っても、柱から離れることはできないというのです。それと同じように、衆生は、心が煩悩に染まり汚れて、そのこと自身にも気づいていないために、ますます苦悩を深めるばかりで、そこから抜け出すことができないというのです。

 釈尊は、そのような私たちに、よく思惟して自分の「心」を観察せよと教えました。犬が柱から解き放たれないのは、革紐で繋がれているという事実があるからです。それと同じように、衆生は、心が煩悩に染まり汚れているという事実に目覚めることができないでいます。「心」を観察せよという教えは、根深い煩悩に繋がれていることに気づくならば、それを離れていく道があることを示したものです。そのことを知らせる教えに出会い、その教えによって生きることを、釈尊は弟子たちに説いたのです。

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