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きょうのことば

きょうのことば - [2005年10月]

有限とは吾人自己の事なり。

「有限とは吾人自己の事なり。」
清沢満之「宗教哲学骸骨講義」(『清沢満之全集』第1巻 P.57)

 10月13日は、大谷大学の開学記念日です。上に掲げた言葉は、初代学長の清沢満之(1863~1903)の「宗教哲学骸骨講義」のなかにあります。そこで清沢は、「一切万物」全ての物は「有限」であると述べています。「有限」という言葉の意味は、限界を有する、つまり、限りがあるということです。

 有限・限りがあることについて、私たちは全く知らないというわけではありません。なぜなら日常生活のなかで、物が壊れたりすることを経験しています。また、人間のいのちも限りがあるということを、見たり聞いたりして知っています。そういう意味では、私たちの周りにある物事に限りがあることは、一応は知っているに違いありません。

 清沢も、この文章のなかで全てのものは皆限りがあるということを述べています。しかし、清沢はそこで話を終えているのではありません。有限について特に「有限とは吾人自己の事なり」と示しています。限りがあるとは、私たち自分自身のことであると述べています。なぜ清沢は念を押すようにこのように言うのでしょうか。それは、限りがあるのは他ならぬ自分自身のことであるにもかかわらず、そのことに私たちがなかなか気付けないからです。

 私たちは、他人や人間一般については、いのちは限りあるものだということを平気で口にします。しかし、自分自身のいのちがそう長くないと宣告されたら、どうしていいのか分からないほど不安になるのではないでしょうか。だからこそ、限りがあるということには目を向けないようにして、いつまでもいのちがあるように思いながら、将来設計をして生きています。

 けれども、自分がどのように思おうとも、自分自身のいのちに限りがあるということは、厳然たる事実です。その事実に目を背けていても、「老」「病」「死」というように自己の有限性が突きつけられます。そのとき、私たちは生きていく道を見失ってしまうことにもなります。

 私たちが目を背けがちな「老」「病」「死」を見据えながら、人間を明らかにしているのが仏教です。ブッダの伝記には、自分自身も「老い」「病み」「死ぬ」ことへの深い驚きが、出家を決意させ、道を求めさせたと記されています。有限の人生を力強く歩んでいける道の学びは、有限である自己自身の事実に真向かいになるところにこそ始まるのです。そのことを清沢満之は「有限とは吾人自己の事なり」と、示しているのです。

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