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きょうのことば

きょうのことば - [2005年08月]

有限のものは、決して自ら安立し得るものにあらざるなり。

「有限のものは、決して自ら安立し得るものにあらざるなり。」
清沢満之「迷悶者の安慰」(『清沢満之全集』第6巻p.86)

 このことばは、「迷悶者の安慰」と題され、1902年に雑誌『精神界』に発表された清沢満之の文章のなかに記されています。ここで言われる「有限のもの」とは、私たち人間のことです。清沢は、有限のものである私たちは、けっして自分自身では安心立命にいたることはできないといいます。

 私たちは、誕生と死を境にした生を生きています。しかし、それは悠久の時間から見れば一瞬にも等しいものです。また、私たちの日々の生活は、広大な宇宙から見れば極微の空間の中を行き来しているに過ぎません。人々は昔から、親しい人の死に接し、あるいは、四季の移ろいや舞い落ちる桜の花びらに、いのちの儚さ、無常を感じてきました。また、人生の岐路に立って不安におそわれたり、愛する人の力になれなかったりするとき、だれもがみずからの有限性ということに気づかされるでしょう。

 しかし多くの場合、私たちのこころは、能力の限界や人生の短さに思い悩み、みずからの有限性を直視することを避けてそれを糊塗したり隠蔽する方向に向かいます。あるいはまた、みずからの限界を克服する方途を求めて、少しでも前進しようと前のめりになることを、積極的な生き方として肯定的に捉えます。

 高度なテクノロジーの発達が著しい現代社会は、そのように自分たちの有限性を乗り越えようとしてきた人間のこころのありようが生みだした結果に他なりません。現代社会は、通信や輸送技術によって時空的な限界を超えようとして、ポール・ヴィリリオのいう「速度体制」の社会となり、医療技術の発達によってできる限り死を先送りしようとしてきました。しかしそれにもかかわらず、あるいはそれゆえに、進むべき方向性が見失われ、私たちの迷いや不安は、解消されるどころかいっそう深まっているのではないでしょうか。

 なぜなら、自分の有限性を克服しようとして、みずからが迷っているという事実そのものがかえって見えにくくなっていくからです。清沢は、まずもって大切なのは、前のめりになっているこころのベクトルを反転し、迷っている自分自身を内観的に省察して、迷いの根源であるみずからの有限性を徹底的に自覚することだといいます。つまり、自分で自分を何とかできるという思いからいったん自由になること、それによってはじめて、限りある人生に託されている意味が明らかとなり、それを生き切る道が開かれるというのです。

 清沢はこのことを理論としてでなく、私たち一人一人が自らの生において感得すべき事実として述べたのでした。「この私」の有限性ということを深く明らかに知ることの意味と、そこから開ける世界を、当時は不治の病とされた結核と格闘した清沢は自らの短い生涯をかけて実験し、私たちに示したのです。

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