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きょうのことば

きょうのことば - [2005年04月]

自己と何ぞや。これ人世の根本的問題なり。

「自己と何ぞや。これ人世の根本的問題なり。」
清沢 満之(きよざわ まんし)(『清沢満之全集』第8巻 p.363)*1

 これは、大谷大学の学祖・清沢満之(1863‐1903)の言葉です。教団改革運動の挫折、身は結核の病、そして自身をとりまく家庭問題、そうしたさまざまの苦労を抱えて、清沢満之は、養子先である大浜の西方寺に帰ることになりました。その西方寺で書かれた日記、『臘扇記(ろうせんき)』に出てくる言葉です。「臘扇」とは、「冬のおうぎ」という意味です。つまり、役に立たないもの、無用なものという意味です。自分の思いによってはどうすることもできない問題の前に、呻吟(しんぎん)する当時の清沢満之のすがたをうかがうことができます。

 明治という時代は近代ヨーロッパの文化が、日本に怒濤のごとくに入ってきた時代です。その明治に生きた清沢満之は、近代ヨーロッパの思想を学びます。そして、自身のいのちをかける求道を通して親鸞の思想の普遍性を世界に公開することになりました。

 「近代とは人間の世紀である」と言われます。それは、私たち人間が、欲(ほっ)することを欲するままに実現することのできる力があるとして、次々と自分たちに都合のよい世界をつくってきたことを意味します。このように、欲することを欲するままに実現する力を持った<私>というものを、絶対的に信頼することから近代は始まりました。だから、また、「神の玉座に人間がすわったのだ」とも言われます。ところがどうでしょうか。自分たちに都合のよい世界をつくろうとした結果、他の動物・植物だけでなく、私たち人間も生きることが非常に困難な世界になってしまいました。

 私たちは、必ず死んでいきます。できることにも限界があります。そして、人間はひとりで生きているのではありません。他の動物・植物や、さまざまな人たちの存在がなければ生きることができません。だからこそ、今、その事実にはっきりと目覚めることが大切です。そのことは、私たち一人一人が何の疑いもなく、信頼して生きている<私>というものが問われていることでもあるのです。このことを清沢満之は、「自己とは何ぞや。これ人世の根本的問題なり」と語っているのです。

 実は、私たちも、自分自身が出遭うことになった現実の問題に悪戦苦闘することを通して、何の疑いもなく、信頼して生きている<私>というものが、確かなものでないことに気づかされるのです。そのことによって、真実に順(したが)って生きる、新しい<私>というものを確立していくことができるのです。

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