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きょうのことば

きょうのことば - [2005年03月]

つくべき縁あればともないはなるべき縁あればはなる

「つくべき縁あればともないはなるべき縁あればはなる」
『歎 異 抄』(『真宗聖典』p.628)

 私たちは日常生活において、学校や職場などで、友人であるとか恋人であるとか先輩後輩であるとか、さまざまな人間関係を生きています。そして、そのような人と人との関係において一喜一憂しています。そのように、人と人の関係というものは、私たちにとってたいへん大きな意味合いを持っています。とくに自分が深く関わった人であるならなおさらです。それゆえに、その人が自分の元を離れて、他の人の所へいってしまうようなことになったら、私たちは愕然とすることでしょう。自分があれだけ一生懸命に関わったのに、あの人はどういうつもりなのかと、怒りや恨みも湧いてくるでしょう。

 親鸞在世の時、念仏の教えに出遇いながら、その人々の中で弟子を奪い合うということが起こっていました。そんな事態に対して親鸞は「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」と語りかけていきました。親鸞はなぜそのように言ったのでしょうか。それは、念仏申す者が誕生していくということは、自分の力によって起こることではなく、如来のはたらきによって起こることであったからです。だから親鸞は「弟子一人ももたず」と言いました。そしてさらに、「つくべき縁あればともない はなるべき縁あればはなる」と述べていきました。すなわち、一緒にいるような条件が整えば一緒にいるし、離れていくような条件が整うなら離れていくのです、と述べていきました。

 自分がどれほど力を込めて関わろうとも、また、離れないでほしいと懇願しようとも、離れていくような条件が整えば、事実として離れていくのです。ところが、その事実を認めることができない人間の我がままによって、この人は私が教えた弟子だから他の人の所へいってはいけないと主張をし、念仏申す人々の中で弟子を奪い合うといった事が起こってきたのでした。そこには他人を自分の思い通りにしたいという人間のエゴがあります。

 念仏の教えとは、様々な立場や違いをもった人間同士が、お互いの立場や違いを尊重しながら、共に生きていく道を教えているものです。人はいろいろな縁の中を生きています。その中で、縁によっては自分の元から去っていく人もあるでしょう。しかし、去ったからといってその人と自分との関係は終わってしまうのでしょうか。親鸞はそのようには考えませんでした。たとえどんなに遠くへ離れていこうとも、それでもやはり、如来の本願によって共に呼びかけられ、念仏申し合う友なのです。そういう仏法の広やかな世界に眼差しを向けて、親鸞は生きていたのです。

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