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きょうのことば

きょうのことば - [2005年02月]

如来の智慧その身内に在りて、仏と異なること無きを見せしめん。

「如来の智慧その身内に在りて、仏と異なること無きを見せしめん。」
『華 厳 経』(『大正大蔵経』第9巻P.624a)

 電車に乗って旅をしていると、途中の駅で停車した電車が、やがて、今までの進行方向とは逆の方に進路を変えて動き出すことがあります。電車は、実は後戻りしているのではありません。確実に目的地へと向かっています。それにもかかわらず、乗せられている本人は、「再び、戻ってしまうのではないか」と錯覚することがあります。それは、電車の乗客自身が自分の直感や思いを頼りとしているからです。

 このように、言わば、西を東だと錯覚して方向を取り違えてしまうような在り方は、私たちが悩みに取りつかれ、そこから解き放たれないでいる状態にも当てはまるのではないでしょうか。悩みの渦中にある本人にとっては、いかに深刻で重大な悩みのように思えたとしても、どこか、的がはずれているために、それほど悩まなくてもよいことに悩み、本当に悩むべきことを見失いながら生きているのかもしれません。私たちには、物事を正しく見ることを妨げる「妄想(もうそう)の心」や、方向を取り違えていても気がつかないままでいる「顚倒(てんどう)の心」が、いつもつきまとっているようです。

 上に掲げた言葉は、『華厳経』「性起品(しょうきほん)」に説かれているもので、如来の智慧と衆生との関係を問題としています。それは、如来が衆生に対して、このことだけは知らしめたいと願った言葉です。

如来の智慧その身内に在りて、仏と異なること無きを見せしめん。
(如来の智慧は衆生自身にも確実に具わっています。しかも、それは、仏の場合とまったく異なるものではないことを、衆生に自覚させたいのです。)
 衆生自身がどう考えているにせよ、仏からすれば、衆生には「如来の智慧」が平等に具わっています。本来、両者の智慧には何の異なりもないことを、衆生に知らしめたいと願うのです。

 妄想や顚倒の心に覆われている衆生と、それを克服して智慧を獲得した如来とは、迷いと悟りという関係で言えば、違い目ははっきりしています。しかし、如来の智慧は、衆生の生き方と離れたものではありません。方向を取り違えて目的地を見失ってしまっていた衆生が、本来、歩むべき道を回復できるとするならば、本質としては、如来と何ら変わるものではないと語ろうとしているのです。つまり、「如来の智慧」とは、衆生を教え導き、立脚すべき道へと方向転換させ、煩悩の束縛から解放させるはたらきなのです。

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