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きょうのことば

きょうのことば - [2005年01月]

能く能く談合すべきの由、仰せられ候う。

「能く能く談合すべきの由、仰せられ候う。」
『蓮如上人御一代記聞書』(真宗聖典877頁)

 この言葉は、日本中世の激動の時代を、浄土真宗の再興者として生き抜いた蓮如のもので、彼が同朋の人々に対して語った言葉を記録した『蓮如上人御一代記聞書』のなかに記されています。「談合」という言葉は、現代ではあまりよくない意味で使われますが、本来は「話し合い、相談する」という意味で、「寄合(よりあい)」「談合」を勧める言葉がいくつも残されています。蓮如が、仏法を聞く同行(どうぎょう)の間で徹底的に議論することをたいへん重視していたことが窺われます。蓮如は、親鸞によって明らかにされた浄土真宗の教えをより多くの人々に開放し、生活の中で信仰を確かめていく基盤として、「講(こう)」や「寄合」と呼ばれる集まりにおいて話し合い議論することをつよく勧めたのでした。

 蓮如が生きた日本の中世、とくに戦国と呼ばれる時代は、戦乱が続き、それまでの秩序が不確かなものとなっていきました。下克上という言葉に象徴されるように、不信感と猜疑心が渦巻いてもいたでしょう。そうした中で、人間同士の信頼関係を確立し維持するために、お互いの意思疎通が重要視されたことは想像に難くありません。しかし、蓮如は、仲間うちの結束を維持するために戦略的な意味でコミュニケーションが大切だと言うのではありません。彼は自分の息子たちに対しても、「仏法を聴聞しても、自分の都合のよいようにしか聞けないから、仏法を聞いて心に思ったことを互いに語りあいなさい」と言っています。わたしたちが真実に出会ったということの確かめは、それを口に出し、お互いに議論して、いまだ十分に聞きえていないことを確かめあうことと別のことではないと言うのです。

 わたしたちは、何も言わずに差異を明示しないことで、他の人と同じであるという安心感に浸ったりします。また、新たな知識やアイデアを自分の所有物のように考えてしまいます。しかし蓮如はここで、少なくとも人間にとって本当に大切なことは、だれかの所有物であったり、だれかがだれかに教え込むことができるものではないというのです。何かが分かったと思っても、それを言葉にしようとして、実は何も分かっていなかったことに気づくという経験はだれにもあるでしょう。とりわけ、本当に大切なことは、自分ひとりが聞いて納得して終わるものではありません。それは、ともに真実を求めて場を同じくする仲間同士の厳しくもさわやかな語り合いのなかではじめて明らかになってくるのだ、そのように蓮如は言いたかったのではないでしょうか。

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