ここからサイトの主なメニューです

Home > 読むページ > きょうのことば > 如来はすなわちこれ真実なり

きょうのことば

きょうのことば - [2004年10月]

如来はすなわちこれ真実なり

「如来はすなわちこれ真実なり」
親鸞『教行信証』〈所引『涅槃経』〉(『真宗聖典』p.227)

 「真実」という言葉は、魅力的です。書物や映画にも、「真実」という言葉が付いた題名が多く見られます。それほど私たちは「真実」という言葉に心を引かれます。しかし、私たちの考える真実は、本当にいつの時代にも、誰においても変わることのないものなのでしょうか。もしそうであるならどうして、国と国や、人と人において、お互いの真実が対立したり、衝突したりするのでしょうか。結局のところ、私たちの言っている真実とは、自分の都合なのです。そしてその都合は、状況や立場が変化すれば、その途端に変わってしまうものです。それは、真実と呼ぶことができないものなのではないでしょうか。

 上に掲げた言葉で親鸞は、如来こそが真実なのであると、述べています。それは、人間を照らし出す如来のはたらきこそが、どのような時代においても、誰においても、決して変わることがないからです。親鸞は、そのような如来のはたらきによって、自分の本当の姿に気付かされたのでした。その本当の姿とは、如来が知っているようには何も知らないにもかかわらず、あたかも知っているかのように思い込んで、言い争い、相手を憎み、傷つけ合っている、そのような人間の姿でした。

 自分の都合によって傷つけ合いながら生きている人間、その人間の暗闇を根底から照らし出し、共に生きる道を開こうとするのが如来のはたらきなのです。この如来のはたらきこそが、立場や時代や状況がどれほど変わろうとも、決して変わることがない確かな真実なのです。親鸞は、この如来のはたらきを仰いで生きていったのです。

 私たちは、他の人の悪いところはよく見えるのに、自分の悪いところはなかなか見えません。相手の悪いところばかりを見て、相手を責めてしまいますから、争いも絶えません。このようにいつも相手の方にばかり向いている眼を、自分自身に向けさせて、自分を本当に知らせてくれるのが如来のはたらきです。自分自身の姿に気付かせ、共に生きる道を呼びかけ続ける如来のはたらきこそが、決して変わることのない真実なのです。人々がその真実に出遇って生きていくことを願いながら、親鸞は「如来はすなわちこれ真実なり」と、示しているのです。

Home > 読むページ > きょうのことば > 如来はすなわちこれ真実なり

PAGE TOPに戻る

ここからサイトの主なメニューです