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きょうのことば

きょうのことば - [2004年04月]

二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慙、二つには愧なり。

「二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慙、二つには愧なり。」
親鸞『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』 〈所引『涅槃経』〉(『真宗聖典』p.257)

 これは、親鸞(1173-1262)の主著『教行信証』に引用される『涅槃経』の言葉です。父を殺害した罪に苦しみ、病に臥せるマガダ国の王阿闍世(あじゃせ)に対して、名医耆婆(ぎば)が語りかける場面です。耆婆は、仏陀を尊敬し、その教えをよく聞いた仏教の外護者の一人であったと伝えられます。その耆婆が、苦しむ阿闍世に次のように語りかけるのです。「阿闍世王よ、仏陀釈尊は常にこうおっしゃっています、『二つの尊い教えが、人を救うのです。一つは慙、もう一つは愧です。』と。

 慙も愧も、どちらも<はじる>という意味です。『涅槃経』では、「慙」を内に向かって自らをはじることであると言い、「愧」を他者に対して自らをはじることだと説きます。そしてこの慙愧の心こそが、人を救う尊い法なのだと言うのです。

 父を殺して王となった阿闍世は、自ら犯した罪の重さに恐れおののき、後悔の念にかられました。それによって身体全体が瘡(かさ)〔できもの〕に覆われるという重い病気にかかるのです。そのような阿闍世に対して家臣達は、さまざまな言葉によって彼を癒そうとしました。父を殺害した責任は阿闍世にではなく父自身にあったのだと言ったり、それは王という地位のなせる当然の行為であると言ったり、とにかく阿闍世王は愁い悩む必要はないのだ、と慰めようとするのです。

 しかし、どのように説き伏せられても、阿闍世の苦しみはなくならず、病いが癒されることはありませんでした。なぜなら、どのように考えてみたとしても、犯した罪を悔いる念いが、心から消えることがなかったからです。

 そのような阿闍世に対して耆婆は、他の家臣達とは違って、自らを追いつめ苦しむのは慙愧の心がある証拠であり、その心があるからこそあなたは救われていくのだと言うのです。人は誰でも、生きていく上では過ちを犯します。眼に見えない小さなものから、多くの人を巻き込んでしまうものまで、過ちはさまざまです。その時、犯した過ちを他の責任にして消し去ろうとするのではなく、まず自ら悔いはじることが大切なのだと言うのです。

 慚愧の心がおこらないのは「畜生(ちくしょう)」であって「人」ではないとも『涅槃経』は説きます。阿闍世が自ら犯した罪をはじ、苦しみを懐くのは、阿闍世がまさに「人」であることの証拠でもあるのです。そこに、阿闍世が苦しみから救われていくはじまりがあるのです。

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