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きょうのことば

きょうのことば - [2003年12月]

私たちは問われている存在なのです。

「私たちは問われている存在なのです。」
V.E.フランクル(『それでも人生にイエスと言う』春秋社p.27)

 これは、オーストリアの精神医学者、ヴィクトール・E・フランクル (1905 ‐ 1997) のことばです。
 ナチス支配下のドイツにおいて、ユダヤ人をはじめ差別された多くの人々が、強制収容所に送られました。そして何百万という人々が、過酷な労働を強いられ、病に 斃 ( たお ) れ、餓死し、ガス室で大量虐殺されていきました。この言語を絶する状況を囚人として生き抜いたフランクルは、そこでの自らの体験と人々の姿をその透徹した眼で見つめ、『夜と霧(強制収容所における一心理学者の体験)』など数多くの著書において語り伝えています。
 収容所で人間としての尊厳を根こそぎ奪い取られ、運命にもてあそばれるだけの存在となった人々は、もはや自分を無価値なものとしか思えなくなっていきました。<生きる意味>というものが、自分の立てた人生設計に沿って追求され、実現されるものだとするなら、強制収容所の囚人たちには、そうした「意味」を追求する可能性さえ残されていなかったのです。
 しかし、「生きていくことに、もう何も期待が持てない」というある囚人の絶望の言葉に対して、フランクルは次のように言います。「私たちが<生きる意味があるか>と問うのは、はじめから誤っている、人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているのだから」、と。その囚人には、彼のことを愛し待ちこがれている異国に住む一人娘がいました。そして、娘の存在によって彼は生きることのかけがえのなさと責任に気づき、生きる勇気を与えられたのです。
 ここでは、人生に対して何かを期待するのではなく、「自分は人生から何を期待されているか」ということへと、生きる意味への問いに180度の方向転換が生じています。この転換によって、人生はいかなる状況においても決して無意味にはなりえないことが明らかになるとフランクルは言うのです。強制収容所という極限状況のなかで、一人一人生きることは、不断の問いかけ、呼びかけへの応答であると、フランクルは確信したのでした。
 現代日本に生活する私たちには、強制収容所での苦難を生き抜くという経験は、想像することさえ困難でしょう。しかしこの困難さは、状況の違いによるだけでなく、人生に対して何かを期待するという考えを自明として疑わない私たちの精神のありようにもよるのではないでしょうか。そのような私たちにこそ、自らの人生において、自分にしか答えられない問いに気づき、応答しているか、と自問することが求められているのでしょう。

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