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きょうのことば

きょうのことば - [2003年08月]

無明の闇夜には功徳の宝珠をして大炬とす。

「無明の闇夜には功徳の宝珠をして大炬とす。」
親鸞『浄土文類聚抄』(じょうどもんるいじゅしょう)(『真宗聖典』P.409)

 この言葉は、親鸞(1173-1262)が著した『浄土文類聚鈔』の言葉です。これは、「深く長い闇夜に身動きできないように生きる私たちに、生きる力を与える名号・南無阿弥陀仏こそが大きなともしびである」という意味です。
 私たちは、日ごろ、物ごとのうわべだけにとらわれ、本当に大切なことを見抜けなかったり、些細なことに腹を立てて落ち込んだり、何か満たされない思いを抱えて生きています。自分のそんな姿に気づいてみても、そこから抜け出すことができずに悶々とすることもしばしばです。そこにいたずらに時間だけが過ぎていくような焦りや空しさを感じずにはいられません。そのことを親鸞は、「深く長い闇夜」と譬(たと)えています。
 仏教は、そんな私たちの生き方の根っこに「無明」があると教えています。「無明」とは、真実の道理に暗いこと、「癡(おろ)かさ」を言います。親鸞は、仏教を通して自己の生き方のうちに潜む無明を真正面から見据え、何とかそれを克服していこうと、青春時代をおくりました。しかし、その歩みを通して、逆に無明から一歩も離れることのできない「凡夫」である自分に気づかされたのです。人間は自分にある不都合なことを隠そうとしたり、それをなくしていけば何事も解決するように思い込んで生きています。しかし無明は、そんなことでは解決できない問題であると、親鸞は身をもって知らされたのです。そんな親鸞にとって「無明の闇夜」とはまさしく実感をともなう言葉であったと思われます。
 親鸞は、それでもなお、「凡夫」である自分は、いったいどのように生きていくのかということを求め続けていきました。それを通して、やがて法然と出遇い、「南無阿弥陀仏」の教えに目覚めていったのです。
 「南無阿弥陀仏」とは、空しい思いを抱えて生きる私たちに「空しく過ぎる」ことのない生き方があることを呼びかけるはたらきを言います。そのはたらきは、私たちが「無明」のもとに生きている事実を照らし出すとともに、どんなに不都合なことであっても、それを受け止めて生きていく確かな道に目覚めさせようとするはたらきです。
 その南無阿弥陀仏こそ、無明に覆われて生きる私たちに生きる力を与えるかけがえのない宝物と言うべきものであり、それに目覚めることが、闇夜に沈んで生きる私たちの「大炬{大きな炬(ともしび)}」であると、親鸞は私たちに語りかけているのです。

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