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きょうのことば

きょうのことば - [2001年07月]

一切の有情はみな食によりて住す。

「一切の有情はみな食によりて住す。」
『成唯識論』(じょうゆいしきろん)

 『成唯識論』は、「三蔵法師」として有名な玄奘(げんじょう)によって7世紀の後半に翻訳された論書です。日本にも早くから伝えられて奈良時代以来多くの人々に読まれてきました。それは『成唯識論』が、仏教の多くの論書の中でも、苦悩する人間存在をもっとも深く解明したものだったからです。つまり、先人達はこの論書を通して、私たち人間とは一体どのような存在なのかということを深く学んできたのです。
 上に掲げた文章は、「すべての人間は常に何かを食べることによって生きている」という意味です。言うまでもなく、私たち人間は、様々なものを外から取り入れて生きています。ここではそれを「食」と言っているのです。「食」と言うと私たちはすぐに「食料」を想像しますが、『成唯識論』によれば、私たちを支えている「食」には四つの種類があると説いています。
 第一は、「段食」と言います。これは先に述べたような「食料」、つまり食べ物のことです。私たちがいろいろなものを食べてそれを消化したとき「食」になると言うのです。第二は、「触食」(そくじき)と言います。「触」とは、あるものと他のものとが接触することです。ここでは、私たちがいつも心に喜びを得るために何かと接触することを求めているという意味です。現代の言葉で言うなら「刺激」ということ に相当するでしょう。第三は、「意志食」と言います。これはいつも自分にとって都合の良いものを求め続けることという意味です。だから「欲望」といったことに相当します。第四は、「識食」と言います。これは今挙げた三つの食がより多く手にはいるようにと望むことです。つまり、私たち人間は、食べ物だけでなく心地よい刺激と自分の都合をどんどん拡大していくことを支えとして生きているのです。しかし、「食」の無限の拡大は私たちを迷わす原因ともなります。
 それ故、ブッダは、かつて迷いのもとを断とうして極端な断食修行を実行されました。ところが、それを放棄してスジャータの捧げた乳粥(ちちがゆ)を食べたのち、正覚を得られたのです。つまり、正覚とは、私たち人間を支えているものを否定したところに成り立つのではないのです。だからといってそれを全面的に肯定しているわけでもありません。ブッダの正覚が、両極端を廃した「中道」と呼ばれるのはこのようなことを指しているのです。

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