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きょうのことば

きょうのことば - [2000年08月]

行者は心眼を以て己が身を見るに、またかの光明の所照の中にあり。

「行者は心眼を以て己が身を見るに、またかの光明の所照の中にあり。」
源信『往生要集』『往生要集1』(岩波文庫)233頁

 ここに挙げた言葉は、源信(942-1017)の『往生要集』から引用したものです。源信は若くして比叡山に登り、天台宗の僧侶となりましたが、980年ごろ比叡山の北端にある横川(よかわ)に隠遁し、念仏を中心とする生活を送るようになりました。そして985年には念仏の指南書として、この『往生要集』を著わしたのです。
 念仏とは、文字どおり仏を念ずることです。普通、念仏といえば、「南無阿弥陀仏」と称えることと理解されています。もちろん源信は、このような称名念仏(しょうみょうねんぶつ)を、全ての人々が、どんな所にいても行えるものとして大切にします。しかし天台宗の止観(しかん)と呼ばれる瞑想法の伝統を重視する源信は、念仏を基本的に三昧(さんまい)[瞑想状態]に入り、そのなかで阿弥陀仏の姿を心に想い浮かべる、いわゆる観想念仏(かんそうねんぶつ)として理解します。
 『往生要集』の中では、このような観想念仏の方法がいくつか示されていますが、そのひとつに惣相観(そうそうかん)と呼ばれるものがあります。これは阿弥陀仏の姿を三昧のなかで観想する方法で、まず心の中で六十万億那由他恒河沙由旬(なゆたごうがしゃゆじゅん)という、想像を絶するほど大きな阿弥陀仏の姿全体を想い浮かべ、その身から放たれる光は宇宙を隅々まで照らし出していると観想するものです。上に挙げた言葉は、この惣相観の説明のなかに見られるものです。ここ で源信は、このように宇宙全体が阿弥陀仏の光に満たされていると念ずる行者は、心眼をもってわが身を見たとき、自分もまたその光に照らされていることを発見するのだと述べています。
 仏教では人間を、無明(むみょう)[根本的無知]におおわれ、計り知れないほどの昔から迷いの世界に流転している存在と受けとめます。源信は、このような我々も、阿弥陀仏に心を向けることによって、仏の光の中に自分を見い出すことができると述べているのです。 ここで言う光は、仏の智慧をあらわしています。この智慧の光は私たちを迷いの世界に繋ぎ止める無明を破る力を象徴しています。この光に触れれば、迷いの世界に身を置きながら、その束縛から解放され、本当に自由に生きる道が開かれてきます。このため源信は『往生要集』のなかで繰り返し阿弥陀仏の光を讃え、それに触れることの喜びを表明して止まないのです。

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