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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [284]

火車

「火車」
沙加戸 弘(教授 国文学)

 日常語としては、「ひのくるま」と訓読みにして、家計の苦しいこと、あるいは資金のやりくりに苦しんでいることの比喩として用いる。

 しかし、この語の本来の意味の恐しさは、現代日本語の比ではない。

 火車は、猛火に包まれた車、の意で、地獄の使者である獄卒羅刹が罪人をこれに乗せて地獄に送り、はたまた地獄において罪人を苛責するために使う、とされる車である。

 釈尊在世の時、悪人提婆達多が仏法に定める最大の罪である五逆罪のうち三逆を犯し、さらに毒爪を以て釈尊を傷害しようと王舎城へ向う途中、生きながら地獄に堕ちた、その時火車が迎えた、と『智度論』巻十四は伝えている。

 また、地獄における火車の責は、『観仏三昧海経』に、

火車に乗せて罪人を焼き、活きかえらせて火車で十八回轢き、天から沸騰した銅を降らせて活きかえらせ、これを永遠に繰り返す(取意)
と説かれている。

 近代の日本で、この火車の恐しさを最も具体的に描写したのは、芥川龍之介の名作『地獄変』であろう。

 この『地獄変』の「変」は、浄土の荘厳または地獄の様相を描いた図画を意味することばで、作中には「地獄変の屏風」と出てくる。

 堀川の大殿様から地獄変の屏風を描くよう命ぜられた本朝第一の絵師良秀は、炎熱地獄の火車を描くために、眼の前で檳榔毛の車を一輌燃やしてほしい、できるならば艶(あで)やかな上﨟(じょうろう)を乗せたまま、と願う。大殿様は良秀の、人を殺してでも、という邪な絵師根性を懲らしめようと、側に仕えていた良秀の娘を車に乗せて火をかける。

 娘を生贄として地獄変を完成させた良秀は、「地獄に堕ちる」と言われながら、屏風を堀川に納めた翌日縊れ死んだ、と芸術至上主義を主題とするこの小説は結ばれる。

 しかし、地獄は、来るべき世代を犠牲にして、眼前の豊饒と快楽とを追い求める我々の行くべきところであろう。

 その時、良秀は道連れとなってくれるであろうか。
(『文藝春秋』2010年6月号)

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