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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [283]

閻魔

「閻魔」
一楽 真(教授 真宗学)

 お堂の中から恐ろしい形相でこちらをにらみつけている閻魔大王。もとはサンスクリット(古代インドの言語の一つ)のyamaの音写語で、閻摩とも閻羅とも書かれる。死後の世界で我々を待ち受ける言わば裁判官で、生前に犯した罪に応じて行き先を決めると言われる。その閻魔大王が手にしているのが一人ひとりの生前の行いを記録した閻魔帳だ。

 閻魔さんの横には浄玻璃の鏡と呼ばれる水晶でできた大きな鏡があり、これが何でも映し出すという。「私はやってません」とか、「記憶にありません」と答えても、鏡にはすべての行いが映し出されてしまうのである。

 「そんなのは昔の話でしょ?」と笑ってはいけない。少なくとも昔の人は自分の行いが死んだら帳消しになるとは思っていなかった。「何をやっても死んだら終わり」、「後がどうなろうと知ったことじゃない」と言って済ませなかったのである。

 そう考えると大きな体躯の、恐い顔をした閻魔像があちこちに作られてきたのも分かるような気がする。私たちの生き方を見張っているのである。何をしても閻魔さんの帳面につけられている。そして一生を終える間際に、閻魔さんに判定されるのである。おのずと恐くならざるを得ない。

 しかし、本当に恐いのは閻魔さんだろうか。閻魔さんに自分がこれまでしてきたことを見抜かれることが恐いのではなかろうか。つまり、バレたら困ることを抱えている自分が恐いのだ。申し訳がたたないことをしでかした自分が恥ずかしいのだ。この意味で、閻魔さんの判定は死んでからの話ではない。現在の生き方に深く関わっている。

 昨今は、目先の利益のみを追求し、誰に何を言われようと構わないというような厚顔無恥な生き方が目立つようになってきた。現代人にとっては、閻魔大王ですら、もう恐くないのかもしれない。だが、それ自身が既に大切なことを見失っている生き方ではなかろうか。

 たまには閻魔さんの顔を拝む必要がある。今のままの生き方で良いのかと、叱ってもらうためにも。

(『文藝春秋』2010年5月号)

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