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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [269]

行儀

「行儀」
沙加戸 弘(教授 国文学)

 テレビ放送等であきれる程の不作法がまかり通り、電車の中での化粧や飲食が話題となる今日、「お行儀よく」という言葉は過去のものかと思っていたが、つい先日バスの中で孫と思しき幼子を連れた御婦人が口にされるのを耳にした。聞いて安らかな気持ちになれる、力を持った言葉に久しぶりに出遭った気がしたのが、まことに新鮮であった。それほど、現代社会には殺伐・空虚なことばがあふれている、ということなのであろう。
 「行儀(ぎょうぎ)」の語は、現在では我々の立居振舞の作法の意であるが、もと仏教の律の言葉である。
 南山律宗の書『四分律行事鈔資持記(しぶんりつぎょうじしょうしじき)』に

行儀とは行事の軌式を謂ふ。像末(ぞうまつ)の教を以て行儀を顕さずんば安(いずく)んぞ能く久しく住せんや
とあって、釈尊入滅の後、年久しき時代にはまず戒律あるいは生活・行事のかたちを整えることが肝要である、と述べている。
 仏教伝来の後我国においても「行儀」の語は、専ら仏事の方式あるいは僧侶の行為や動作の作法を表す語として用いられてきた。
 この「行儀」の語が、僧侶以外の一般の人々の行動にも用いられるようになるのは、現在我々が使用している日本語の直接の先祖である室町時代の言葉からである。
 御伽草子の『猿源氏草紙(さるげんじそうし)』に
かの殿の ふだんの行儀を委(くわ)しく知りて候
と使われているのが早い例であろうか。以後、とぎれることなく使われ続けて現代に至る。
 冒頭に記した「お行儀がよい」はそこからさらに進んで、「よく行儀を守っている、乱れがなくきちんとよくそろっている」の意で、近代に生まれた用法である。
 明治時代の作家巌谷小波の『妹背貝(いもせがい)』に
真白な行儀のよい歯が、二三枚垣間見(みゆ)る処、その可愛らしさ、実に何とも云へない
と使われている。
 あらためて、行儀のよさが人の世に快いものである、ということを再認識したいものである。

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