生活の中の仏教用語 - [257]
「合掌」
宮下 晴輝(みやした せいき)(仏教学 教授)
古来仏教とともに伝わり日本の文化に広く浸透した行儀(ぎょうぎ)の一つが、手を合わせて頭を下げ敬いの姿勢をとる「合掌」である。
合掌し「ナマステ」と言うのは、ごく普通に交わされるインドの挨拶である。「ナマス(namas)」は頭を下げて身体を曲げることで「テ」は「あなたに」という二人称、「あなたに礼拝します」という意味になる。
この合掌の行儀は、言葉は異なっても、仏教が伝わったアジア全域に広まり、いまでは世界の宗教者に理解されている。先日、ドイツの神学校を訪れたとき、向こうから合掌をしてくださり、合掌でお返しした。とてもさわやかな敬愛の念が通い合う。互いに人間であることを認め尊敬しあうという、これほど簡単ながら深い人間の行為は他にあるだろうか。
話は変わるが、以前、妻を亡くして仕事と子どもらの養育につとめていた男性が「どうして私だけがこんなつらい目をみるのか」と思い、他の人たちにいやがることをして軽犯罪に問われた事件があった。
人間とは、これほどにやるせなくあわれでおろかなものなのだ。“世界中の誰ひとりとして私を認めなくとも、私は私の道を行く”などというのは物語の主人公だけなのだろう。私たちはかくも弱く、つらくて真っ暗になり、未来を失い、耐え切れなくなった苦しみの極みには「どうして私だけが」という思いのとりこになり、もはや人間であることにさえ踏みとどまれなくなってしまうのであろう。
しかし、本当の主役は私であるのかもしれない。そのおののきの中にあって、ありのままの自分をそのままに受け容れる世界があるという仏陀の教えを聞くとき、その驚きとその喜びに、おのずから合掌の世界が開けてくるであろう。
挨拶というだけではすまされない合掌のもう一つの意味が、ここにひそんでいるようである。アジアの仏教徒が仏陀の前で手を合わせるのは、悩み苦しむ自分を無条件に受け容れてくれる世界があると教える仏陀その人を仰ぎ尊ぶ姿なのであろう。