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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [250]

所詮

「所詮」
木村 宣彰(きむら せんしょう)(仏教学 学長・教授)

 同じ時代・地域に生きる人々が互いに関わり合いながら暮らすこの世を、すばらしい人間世界と見るか、所詮は浮き世と見るか、人さまざまである。このように〈あれこれ思いめぐらした結果、落着くところは〉というような意味合いを表わす語が「所詮」である。
 この所詮という語は、つねに能詮と対をなして用いられる仏教用語である。仏教には八万四千の法門と言われるように数多くの経典があり、それらの経典によって説き明かされる内容を「所詮」といい、その内容を明らかにする言葉や文字を「能詮」という。この「能」は「~ する」という能動を示し、「所」は「~ される」という受身を示す語である。そこで「能詮」は言い表わす〈ことば〉や〈文字〉を、「所詮」は言い表わされる〈意味〉や〈内容〉を指す。これを我々の行為について言えば、はたらきかける主体が「能作」であり、その行いの仕業や振る舞いが「所作」である。
 要するに、仏教経典の文句によって説き明かされる義理・内容が「所詮」である。そこで「所説の法は、所詮の義なり。名・句・字は、能詮の文なり」とか、「教は能詮、理は所詮」などと説明される。この所詮を「詮ずるところ」と読んで〈つまるところ〉の意味に用い、「詮ずるに」と言って〈つきつめて考えてみると〉の意味に用いている。
 一遍上人の『語録』には「南無阿弥陀仏ばかり所詮たるべしと思ひさだめて」と説かれ、「所詮」が〈畢竟( ひっきょう)〉や〈肝要〉の意に用いられている。また『沙石集』では「此の児、歌をのみ好きて所詮なものなり」とあるのは〈しかたがない〉の意である。更に今日では「所詮、この世はままならぬ」のように下に打消しの語を伴い〈どのようにしても〉〈どうせ〉の意味を示す語として「所詮」が用いられるようになった。
 美辞麗句を連ねた候補者の選挙公約が、所詮は絵に描いた餅では有権者としては嘆かわしい。この世を憂き世にしないのが政治家であるとすれば、決して国民に「所詮、選挙公約だから」「所詮、叶わない夢だよ」などと思わせてはならない。

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