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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [227]

悪魔

「悪魔」
中川 皓三郎(なかがわ こうざぶろう)(真宗学 教授)

 苦行を捨てて、菩提樹の下に坐り、老病死の苦しみは何に因ってあるのかと、その苦しみの原因を静かに尋ねるゴータマ・シッダールタ〔釈尊が仏陀に成る前の名〕に悪魔たちが襲いかかる。悪魔たちは、出家の時から覚りを開かせまいとしてつきまとったといわれる。その悪魔たちとの闘いに打ち勝ち、真理〔縁起の法〕に目覚めて仏陀〔目覚めた人〕に成るのである。
 悪魔とは、<魔>とも言い、古代インドの言語であるサンスクリット語の<>の音写である。意味は、「人の生命を奪い、仏道修行などの善事に妨害をなす」ということである。悪魔はいろいろな姿をとって覚りを開かせまいと襲うのであるが、突き詰めていえば、それは快楽へのいざない(飴)と死の恐怖(鞭)の二つの姿だといわれる。
 だから、悪魔たちは、美しい女性の姿をとって「楽しみましょう」といざなうのである。しかし、従わないということになると、次は恐ろしい姿で剣を振りかざし「ここを立ち去れ。さもなくば殺すぞ」と脅すのである。シッダールタは、この悪魔たちの試みにも心動かされることなく、覚りの道へと突き進むのであるが、では、悪魔の正体は何であろうか。
 それは、一言でいえば、私たち人間の抜きがたい自分中心の心といっていいであろう。
 私たち人間は、自分と他人というものを二つに分けた上で、この自分というものを何よりも大切なものとして、ひたすら自分の思いに適うものを追い求めて生きている。
 ところがどうであろうか。私たちがどのように考えようとも、誰もみな例外なしに必ず老病死する、限りある命を生きている。それにまた、人間だけでなく、他の命を生きるものに支えられて、共に生きているのである。だから、絶対に思い通りになることはない。この人間の事実を無視して、自分の思いに適う、自分中心の生活を実現しようとして生きることが、悪魔の正体である。
 だから、私たちが、命の真理に目覚めて生きることだけが、私たちに充実した、穏やかな、安定した生活をもたらすのである。

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