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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [225]

飛行

「飛行」
浅見 直一郎(あさみ なおいちろう)(助教授 東洋史)

久米仙はよほど遠目のきく男
 この川柳を見て解説抜きで笑える人は、今どれくらいいるだろう。
 『今昔物語集』巻十一によると、大和吉野の龍門寺で修行し仙人となった久米という男が、空を飛んでいる時、川辺で洗濯をしている若い女性の白い脛(はぎ)を見、「心穢(けが)れて」その女性の前に墜落した、という。川柳は、上空から女性の脛を見つけるとは遠目がきくことだ、と風刺している。
 この話には続きがある。久米はこの女性と夫婦となって暮らしていたが、あるとき徭役(ようえき)に徴用された際、役人たちから前歴をからかわれて発奮し、七日間断食して祈ったところ、大小の材木が山から飛んで来た。時の帝が尊んで田を施したので、久米はそれで寺を建てた。これが久米寺の起こりだ、というのである。
 空を飛ぶことは昔から人々の憧れであった。そこで何か特別な能力を備えていることを表すためには、空を飛べることを示すのが誰にでもよく理解できて効果的である。久米の仙人の話をはじめ、仏教説話には、自身が空中を飛んだり、何かを飛ばしたりする話がしばしば見られる。
 仙人が修行の結果飛べるようになるのと異なり、仏は最初から飛ぶ能力を備えているとされた。『曽我物語』巻六に、釈尊が人間世界を「あまねく飛行(ひぎょう)して御覧」になっていたとき、仏教を広める適地だと見定められたのが比叡山の起源である、という話が見えている。
 飛行という語は、現在では「飛行機」「遊覧飛行」など例外なくヒコウと読むが、かつてはむしろヒギョウという読みが一般的であった。それは、イエズス会の宣教師たちが十七世紀初めに作った『日葡(にっぽ)辞書』にヒギャウと表記されていることから知ることができる。
 また、仏法の力を飛行する能力で表そうという発想は、非常に古くから見られる。その一例として『大智度論(だいちどろん)』を挙げたい。これは一~二世紀インドの仏教学者ナーガールジュナ〔=龍樹(りゅうじゅ)〕の著作を、五世紀初めに鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢訳したものであるが、その巻五に、仏教の神通力の一つとして「身能(よ)く飛行(ひぎょう)して鳥の如(ごと)く無礙(むげ)なり」、鳥のように自在に飛行できる、ということを述べているのである。

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