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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [205]

実際

「実際」
木村 宣彰(きむら せんしょう)(教授 仏教学)

 理論と実際とは容易に一致しないものである。そこで頭で考える想像や理論と眼前の現実とが相違するとき「実際は」とか、「実際の所」などと言って事実を語る。例えば漱石の『吾輩は猫である』の中に「然し実際はうちのものがいふ様な勤勉家ではない」という一文がある。猫の主人である教師を「家のものは大変な勉強家だと思って居る。当人も勉強家であるかの如く見せて居る」のである。ところが、書斎ではよく昼寝をし、読みかけの本の上に涎をたらしていることを猫は知っている。これが実際なのである。
 この実際という語は、元はインドから伝来した仏教経典にあった梵語ブータ・コーティの訳語である。ブータは「ものごと」のこと、コーティは「きわ」「極み」を意味する。そこで「ものごとの極み」「存在の極限」を言い表す言葉として「真実の際」すなわち「実際」という語が考案された。
 鳩摩羅什が訳した『大品般若経』に「実際品」という一章があり、事象のもっとも真実にして究極的な境界を「実際」と名づける、と説いて いる。その「実際」は思慮も言辞も及ばないので「如」といい、それはまた事象の本性であるから「法性」とも呼ばれる。龍樹の著作とされる『大智度論』は「この三(如・法性・実際)は、みな諸法実相の異名」と解説する。従って、実際とは「すべての事物のありのままの姿」(諸法実相)のことである。
 要するに「あるがまま」の事実を「あるがまま」に知るのが実際である。ところが、この意味が転じて理想的なものを排除し、ドロドロした現実に即して事を処理する「実際的」という言葉が生まれた。この場合の「実際」は「現実」や「実用」と同義に用いられる。
 自己中心の立場から離れることのできない凡夫は、世界の一切を自分に都合のよいように見る。そのような凡夫が「あるがまま」に「実際」を窮め尽くすことなど到底不可能である。そこで親鸞は、凡夫の無駄な努力を捨て「ただこの高僧の説を信ずべし」(「唯可信斯高僧説」『正信偈』)と説かれたのであろう。折しも十一月は親鸞の恩にむくいる報恩講の季節である。

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