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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [199]

慢

「慢」
泉 惠機(いずみ しげき)(助教授 仏教と人権)

 我慢強い、というと忍耐力があるとして誉め言葉に使われる。しかし、我慢はもともと自己にとらわれ心おごることであり、仏教語に起因する。また高慢、驕慢などの語も日常生活にかなり浸透しているが、ここで言う「慢」は、人間の根本に根ざす煩悩の一つである。人間は、他と自分を比較して他の人より「勝っている」と思うと優越感を感じる。逆に「負けている」と感じると眠れないほどに劣等感にさいなまれたりする。そのいずれもが「慢」である。
 人間は、他と比べてその結果に一喜一憂することから離れられないが、より優れた能力をもっているから立派であるというようなことは、本来あり得ないことである。本当は、何かを持っているから尊いのでもなく、何かが欠けているからつまらない人間なのでもない。何を足すこともなく、何を着飾ることもいらないのである。
 小学校時代、何度か「人間は万物の霊長である」という言葉を先生から聞いたことがあった。こんな言い方は最近ではもう“死語”となって「霊長類」という分類名として生きているのに過ぎないかもしれないが、これは他の生物に対する人類の慢心から出た言葉であろう。この人類の慢心が結果としては環境破壊や多くの生物の死滅をもたらしてきた。
 確かに、人間は殺さなくては生きていけない存在である。だが「万物の霊長」という言葉を生み出した慢心は、そういうあり方しか出来ない自らへの「悲しみ」を生み出すかわりに、それの「正当化」を生み出すことに役立ったであろう。
 しかもこの「慢」という心は誰の心をも、また意識下の世界をも汚染していると言われる。殊に、社会的地位の高い者、高い学歴をもつ者、女に対する男、障害者に対する健常者、文明化(欧米化)の度合いの高い者など、力や勢力の強い者、大きな権力をもつ者の心を、無意識のうちに優越感が占領している。
 それを「正義」や「人道」などという言葉で正当化したり、すり替えたりするところに真実は無い。

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