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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [197]

極楽

「極楽」
泉 惠機(いずみ しげき)(助教授・解放の真宗学)

 この言葉は、日本人の日常生活の中でよく使われている言葉である。
 寒い日に暖房のきいた部屋でホーム炬燵にあたって、テレビを見ながらおいしいものを食べたりすると、「昔と違って、今は極楽さまだ。有り難いことだ。」などと話されているのをよく耳にする。我が家の近くには「極楽湯」なる、趣向をこらした銭湯さえ出現した。
 しかし「極楽」は「極楽浄土」と言われるように、「清浄土」なのであって、人間の欲望の満たされた世界ではなく、清浄な心が開く世界をいうのである。「自分自身の楽しみを求めず」「すべての人の苦しみを抜き去りたい」という、清浄な願いが開く世界である故に「浄土」といわれるのである。そしてまた、そんな心は欲望に満ちた人間にとってはあり得ないからこそ、彼岸(人間を超えた世界)とも言われるのである。
 とすれば、欲望のままに、五感の楽しみを求めて生きている私たちの世界は、「極楽」から最も離れた世界ということになる。
  人類の歴史は欲望のままに描かれてきた壮大なドラマであると言えよう。すべての人間が、他よりもっと多くを持とう、もっと楽に生活したいと、自らの欲望の満足を追い求めてきた軌跡は、同時に、弱者を蹂躙(じゅうりん)し、勝者に驕(おご)りをもたらし、さらには空も水も土も汚染させてきた軌跡であった…。何たることであろうか!
 世界が欲望で成り立っていることは事実であっても、事実であることは真実であるということではない。「極楽さまだ」としている心がもたらすものが、世界の、自他の破壊でしかないとは、何という愚かさであろうか!「極楽」を求めることが「地獄」に生きることになろうとは…。
 今、世界の喘ぐ声が聞こえる。その上に焦臭(きなくさ)いにおいも立ちこめている。「世の中安穏なれ。真実の言葉よ、広まれ。」という願いから、今こそ、自らの生活を、社会を、国家を、世界を問い直す時である。「極楽浄土」という言葉は、そのことを私たちに求めているのである。

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