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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [195]

共同

「共同」
泉 惠機(いずみ しげき)(助教授 解放の真宗学)

 今日では「きょうどう」と読み、共同溝や共同作業など、本来独立して存在している二つ以上のものが、一つのものを共有したり、力を合わせてことにあたったりすることを意味し、かなり頻繁に、広く用いられている。
 仏教では呉音で「ぐどう」と読むが、「共同」という熟語としてだけでなく、「共に」、「同じく」と別々に用いられることも多い。いずれにしろ、仏教の歴史の中で大切にされてきた言葉と言ってよい。
 仏教において「共同」という言葉を大事にしてきたのは、共にあるものの個々の在り方を問題にすることと同時に、共にあるものとの関わりをこそ問題にしてきたからで、自分一人の救いよりは、すべての人々の救いを求めることを願いとしてきたからに他ならない。
 そこには、人間は自己の利を先とする心で生きるときには、たとえそれが満たされたとしても、本当の幸せにはなれないのだという、人間への深いまなざしがある。
 単純と言えば単純なことだが、人間は一人で生きているのではなく、常に「他と共に」生きている。これは一つの「考え」ではなく「事実」である。この事実に仏教は眼を向けるのである。
 この世のものは何ひとつ単独で存在するものはない。相互に支えあい関係しあい影響しあって、存在している。私という人間も当然同じように、いわば一つの共なる命、共生の大地に生きているという事実がある。これを「共同の命」ととらえるのである。そのようにして生きている世界で、一人だけの幸福などというものは、本来あり得ないのでないか。
 宮沢賢治が「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言うとき、彼もまたこの人間の事実に触れているのであろう。
 今求められているものは、他と共にしか生きられないという事実を見据える眼ではないだろうか。そして同時に、他と共なる世界を踏みにじっているという事実を、目を覆うことなく見つめることではないか。

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