生活の中の仏教用語 - [181]
「念力」
樋口 章信(ひぐち しょうしん)(助教授・真宗学)
念力というと超能力を思い浮かべてしまう。パラサイコロジー、すなわち超心理学という分野があるが、その世界で言うサイコキネシスとは、つまり心に念ずることによって事物を動かすような力のことを指す。
しかしまぎれもなくこの言葉は仏教語である。それは、私たちを悟りに近づけてくれる五つの力(五力)のうちのひとつに数えられており、物事を憶念する力を意味する。記憶力とも密接に関係している。「憶」は常にある対象を意識しているわけだから、「忘れない」ということにもなる。たとえば、念仏とは阿弥陀仏をつねに思って忘れないことだ。
仏教では悟りに至らせてくれる方法が三十七あると考えられ、三十七道品(さんじゅうしちどうぼん)と称されている。五力もその中に含まれる。煩悩を遠ざける方法である五力には、念力のほか、信力(しんりき)、勤力(ごんりき)、定力(じょうりき)、慧力(えりき)とがある。信力とは精神を浄化するはたらきである。勤力とは努力できる能力。定力とは精神を統一し集中させることのできる能力。慧力とは真実を把握することのできる能力である。
どっぷり煩悩につかり、不安と迷いの中であくせくしている我々人間を、不動の主体として蘇らせてくれる道、それが仏法であり仏道なのだ。時を経るにしたがって言葉の意味が変わってくるのは世の常だが、念力の場合は変わりすぎていて、本来の意味とは異質な、似ても似つかぬ言葉と化してしまった。
人間と仏はそれぞれ有限・無限と表現される。人間の有限な念力は「僕の、私の」という意識から離れられず邪気が混じるが、仏の念力はあまねく清浄で無欲であると言われる。仏の念力は、積極的な人生に私たちを導き、何かと不安をきたてる時代にあっても惑わされることなく、自分らしい生き方を求めさせる。
私たちは日々あわただしい生活を強いられつつある。その傾向は当面止みそうもない。しかしもうそろそろ本当に意味のある対象を念ずる時代なのだ。まずは独りになって思いを凝らす精神的余裕が必要である。