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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [171]

付属

「付属」
木場 明志(きば あけし)(教授・日本近世近代宗教史)

 ウィスキーを買いに寄り、オマケのグラスにつられて、ついいつも飲むやつとは違った瓶を抱えて帰った若き日の経験を持つ人は多いに違いない。不揃いのグラスだけが残ったものである。こういう癖が抜けない人は、付属品に眼を奪われて車やパソコン、さらには、おトクな通販の品々をいまも買い続けているかもしれない。そこまで極端でなくても、付属のものに惑わされるのは、人間の性であるかとも思える。
 「付属」とは、付属品という言い方が示すように、主なるものに付いていること、を指すのが一般である。受験年齢のお子さんをお持ちなら、大学の付属中・高等学校を連想されるかもしれない。ところで、「付属」は本来、仏教語である。 「嘱累(しょくるい)」という難しい別表記もあり、仏が教えを流布する使命を付与し、託すことをいう。
 例えば、『無量寿経』巻下には、

弥勒よ。たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれをすぎて、
この教法を聞きて、歓喜信楽(かんぎしんぎょう)、し、受持読誦(じゅじどくじゅ)
してに如説(にょせつ)に修行すべし。
と、釈迦牟尼仏が弥勒菩薩に本願念仏の教説を伝えることを託したとあり、これは弥勒付属と称される。ここから、師が弟子に仏法の奥義を伝授し、それを後世に伝えるよう託すことをも付属といい、『今昔物語集』二の三二に、
家業、及び妻子、眷属を、弟に付属して山に入りぬ。
とあるような、頼み預けること、与えること、託すこと、という意味に用いられるようになった。
 付属とは、おまけではなく、本体そのものが託され、与えられることであった。付属こそが大切な中身を内包するのである。そう思って世間を見まわせば、本体のようで実は無意味なもの、付属のようで実は本体を備えたもの、が如何に多いことか。 
 主たるものと付属とは本来一体である。私たちが後世に付属すべきものは何なのか。改めて考えねばならないだろう。

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