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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [170]

逝去

「逝去」
小川 一乗(おがわ いちじょう)(教授・仏教学)

 葬儀における弔辞や弔電で「ご逝去を悼み謹んでお悔やみ申し上げます」と、人の死を悼む尊敬語として使われている。死をどのように考えるかについては、死生観や宗教の違いによって様々である。死はすべての人に例外なく訪れる事柄であるが、経験して実証することのできない事柄でもあるため、死についての思索は、死後の世界を幻想する神秘主義に陥るか、さもなくば「死んでからのことは、死んでみないとわからない」という実証主義に陥って思考停止するかの何れかとなる。
 一時、臨死体験ということがブームとなったが、それは美しく安らかな死後を連想させるものとして、人々に死後についての不安を取り除く役割を果たすかに見えたが、所詮、死そのものではなく、神秘主義からも実証主義からも見放されブームは終わったようである。しかし死は必ず訪れる。死に何らかの意味を持たせないと納得しないのが人間の業である。「死は再生への出発点である」とか、「何らかに役立つ死でありたい」とか、それは様々である。
 しかし、仏教では死とは逝去である。逝去のことを入滅とも涅槃ともいう。無量無数の因縁によってただ今の瞬間の命が生かされているという縁起の事実への目覚めを基本とする仏教では、ただ今の私を私たらしめていたすべての因縁が、過ぎ去って[逝去して]寂滅したのが死である。入滅[滅に入る]とは私を私たらしめていたすべての因縁が滅したということである。涅槃とは消滅という意味であり、因縁によって生死の世界に生きた命が寂滅したことを指す言葉である。仏教では死とは、岸辺に打ち上げられた波が深くて広くて果てしない大海に帰っていくように、静かな本来の世界に帰っていくことである。涅槃である死は寂静であり、それは意味付けを必要としない世界である。
 この縁起の事実への目覚めにおいて、神秘主義も実証主義も超えた逝去という死後の在り方が、浄土として明らかになる。

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