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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [165]

殺生

「殺生」
木場 明志(きば あけし)(教授・日本近世近代宗教史)

 「ほんな殺生な!」とは、上方商人が、無理無体な取り引きを強要されそうな時に口にする言葉である。そこでの「殺生」は、むごいこと、残酷なこと、またそのさま、を云う。
 「殺生」の原義は、仏教語で生き物を殺すこと。仏教では殺生は十悪の一つであり、僧はもちろん、在俗の信者たちが日常的な習慣として身につけるべき五つの戒め(不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒)の、筆頭にも挙げられる。 殺生について、『沙石集』一ノ八に見える話。安芸厳島社に詣った僧が、供えられた魚を見て、本地垂迹説では、神はもと仏菩薩であるから「慈悲を先とし、人にも殺生を禁給ふべきに」と不審を抱く。権現神の返答は、

殺さるヽ生類は、報命尽きて何となく徒らに捨べき命を、我に供ずる因縁によりて、仏道に入る方便となす。
と、殺された魚は、いずれ死ぬところを、権現神に供せられたことが方便となって仏道に遇える、であった。
 別本類話では、僧に命を助けられた鯉が夢に現われ、自分は供えものとなって仏縁を結ぶはずだったのに、命だけが伸びたと嘆く。別話には、生あるものは必ず死ぬから、食されて僧の腹に入れば、胎生と同じでいずれ僧と共に浄土に往ける、とある。
 親鸞の態度については、覚如の『口伝抄』に見える。魚鳥の肉を饗せられた時、居並ぶ僧が袈裟を脱いで食べたのに対し、親鸞は袈裟を着ていた。わけは、今は仏教が廃れた世なので、僧の姿であっても俗人と心は同じだから食する。でも、食べるからには食べられる生類を解脱させたく思い、諸仏解脱の姿を表わす袈裟の格別の働きに期待してみようかと思う、と。
 これらの中世の伝承には、仏教が次第に世俗のものとなっていく道筋が見えている。と同時に、殺生を肯定してゆく姿が読み取れる。
 親鸞は、生業のためには殺生を避けられない人々について「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』)と語った。殺生をも行うのが人間であると見据えるものであり、『沙石集』の現実肯定とは違い、殺生否定を踏まえている点で味わいがある。

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