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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [157]

菩薩

「菩薩」
佐藤 義寛(さとう よしひろ)(助教授・中国文学)

 寺院や美術館などで、釈迦如来の両脇に脇士がともに描かれた三尊形式の仏像や仏画をよく目にすることがあると思うが、この脇士こそが代表的な菩薩の姿である。
 右側に白象-驚くことに左右に三本づつ牙をもつ、六牙の白象という象の王-に坐した方が、「理」を象徴した普賢菩薩、左側に獅子に乗った姿で描かれるのが文殊菩薩、「三人寄れば文殊の智恵」と言われるように「智」を体現した菩薩である。ともに釈尊のそばにあって、その布教の手助けをする存在である。この二菩薩は、観音菩薩とともに古来大変多くの信仰をあつめた菩薩である。
 そもそもこの菩薩とはサンスクリット語の「ボーディサットバ」の音訳で、正確には「菩提薩」と訳される。よく使われる言葉ではあるが、その意味するところは時代や人によりさまざまで、正確に定義するのは容易ではない。もっとも一般的には、「悟りを求める人」と訳す。
 しかし、ただ単に自らの悟りを求めるだけではなく、広く衆生の悟りの手助けをする人、人々の救済に懸命になって、みずからの身をすり減らすような人、そうした人がよく菩薩と呼ばれる。
 また悟りをえた人を仏とするなら、菩薩とは仏にいたる過程にある者をいう言葉でもある。そういう意味で釈尊の前世、前身を菩薩と称することもある。しかし、菩薩とは決して出家した求道者だけを指す言葉ではなく、在家の者に対してもよく使われる。そうしたこともあって「山口百恵は菩薩である」などという言い方もされるのであろう。
 いずれにしろ、あまりに完璧すぎて近寄りがたい仏に比べて、菩薩はある種の不完全さをもつため、人々にとってどこか親しみの持てる、身近な存在であり、みずからが憧れ、あやからんとするには格好の存在であったと言えよう。それゆえ人々の信仰をあつめ、多くの仏像や絵画に描かれ続けてきたのである。
 そして今でも、誰のそばにも、悟りへの手をさしのべ、時には厳しく、そして優しく導いてくれる菩薩のような人が存在するはずである。

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