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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [108]

不覚

「不覚」
一色 順心(いっしき じゅんしん)(助教授・仏教学)

 意識がはっきりとせず、実行すべきことができなかったとき「前後不覚に陥っていた」と人にもらすことがある。また決して見過ごしてはならないときに、一瞬の油断から「不覚にも」見過ごしてしまうことがある。そのように、日常でいう不覚は、覚えがない、覚えていないという意味で使用しているといえる。
 ところで、私たちは、眼や耳などの器官によってさまざまな色や音を感じている。最近、電車のデッキやプラットホームなどで、携帯電話を耳に当て通話している人々を多く見かけるようになった。ポケットベルを持つ人も然りである。持ってさえいれば何時でも何処でも受信し発信できるという点で、大変便利な道具だと言えよう。ただ、私だけがそうなのかもしれないが、電話が掛かる際の「ピピピー」という音が辺りの何処かで鳴った途端、とっさに自分のカバンの中から電話を捜し出そうと身構えてしまう。事実としては他人に掛かった電話であるのに、自分に掛かったかのように勘違いするのであるから、それは錯覚としか言いようがない。
 実は、錯覚とか勘違いのようなものが、仏教に言う「不覚」ということと深く関わっている。不覚とは、仏の智恵に暗いこと、無明を意味する言葉なのである。ちょうど、方角に迷ってしまい、進むべき方向が東であるにもかかわらず、西へ向かってしまうことがあるように、方角を立てることにより方向を取り違えてしまうはたらきを無明という。私たちは、自分の失敗を悔やんだり反省しようとする心を持合わせてはいるものの、不覚にも失敗したのは偶然で、失敗するはずのない自分こそが本当の自分だと考えてしまう。仏教は、それを危ないと教えてくれる。無明によって、生きる方向を取り違えてしまっているからである。
 大きな決断を迫られたとき、「覚悟はできている」などと言うことがある。覚悟の行方でなく、そう決断しようとしている自己自身を見据えさせるものが、無明の闇を破った仏の智恵なのである。

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