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そして、教壇へ。~彼らと教職支援センターの日々~

先生になるにはどうすればいいですか?2014

(6) 美濃部 俊道さん

“合格”までの長距離走。そこにはいつも、伴走者がいた。(美濃部 俊道)[2010年3月 仏教学科卒/2014年度滋賀県教育委員会採用(中学校国語科)]

双子の弟がいる。美濃部は仏教学科、弟は社会学科、二人同時に大谷大学に入学し、大学の近くのアパートで二人暮らし、2010年3月、いっしょに卒業した。よくある仲のいい兄弟だが、弟は障害を抱えており、車椅子生活だった。
「弟さんの面倒を見てたいへんだね、なんて言ってくれる人もいるんですが、ぜんぜん。弟は精神的に自立していたし、ヘルパーさんに来てもらっていたので、夜にちょっと介助するくらいのことでした。大学に通うときも弟は電動車椅子で、僕は自転車でシャーッと」
美濃部は美濃部で、大学では忙しかった。実家が浄土真宗の寺なので、後継者として僧侶の資格を取らなければならなかったし、小学校から続けてきた野球を大学でも真剣にやっていた。その上さらに教職課程である。しかも、普通は中学・高校の免許だけを取得するところを、欲張って小学校の免許にも挑戦していた。超過密な履修登録や野球部との両立については、教職支援センターで相談しながらなんとかやりくりしたが、それでも。
「もう、バタバタでした。弟は楽勝で卒業できたんですが、僕は本当にギリギリで…」
そんな状況だったから、教員採用試験の準備に集中できるはずもなく、現役での挑戦はあえなく失敗に終わった。

美濃部さん

毎年、友がみな合格していく。それでも日々に“笑い”はあった。

卒業後、美濃部は常勤講師をしながら再チャレンジする道を選ぶ。彦根市立稲枝中学校に1年、長浜市立湖北中学校に2年、そして、長浜市立北中学校に1年。…長い!美濃部の同期で教職を目指した者は60人ほど。結束力の強い学年で、卒業後も年に1〜2回は集まって、近況報告会を開く。最初の年、採用試験に合格したのは2名。おー、すごいな、来年は俺らもがんばろうな!次の年、約半数が合格。う、うん、来年こそは…。そしてさらに次の年。美濃部たち不合格組は、明らかにマイノリティだった。報告会には教職支援センターの方も参加するのが通例で、美濃部たちを励ましてくれた。
「わざわざその席にまで問題集を持ってきてくれて、これ、絶対いいから!とか、小論文のセミナーがあるから必ず来て!とか。どっちが受験するのかわからないくらい熱心にサポートしてくれました」
もちろん、報告会の席だけではない。時間を見つけては教職支援センターを訪れ、同級生や後輩と顔を合わせ、雑談する。それだけで、エネルギーを補給できた。
講師をしていた長浜北中学校の先生から「常勤しながらだと勉強できんやろ。現場のことはワシらがなんとかするから、いっぺん休んで勉強だけに集中してみたらどうや」と勧められたのをきっかけに、講師を退職して1学期間、勉強に没頭した。実家の寺の広い座敷に、同じく教職を目指す者が数名集まって勉強会を開いた。模擬面接の様子をビデオに撮っては「そこで噛んだらアカンやろ」「いまのはインテリっぽくて感じ悪いな」と、真剣な中にも笑いがあふれる勉強会だった。

弟の裕道(中央)とその仲間たち

4年間の助走、そして、乾坤一擲の大ジャンプ!

俺を採用せんでだれが受かるねん!自信と意気込みを持って望んだ2013年夏の滋賀県教員採用試験、美濃部は見事に合格した。
「ずいぶん遠回りしました。長距離走には伴走者が必要で、同級生や後輩、教職支援センターの方、講師に行った先の先生方や生徒たち、みなさんが僕のペースをつくってくれました。みなさんから、多くのことを学びました。弟も、あの車椅子で伴走してくれていたのかもしれません」
兄ちゃん、がんばったな…そう言ってくれた弟は、いま、地元で障害者介護のNPO法人を立ち上げ、活躍している。

勉強会でも使用したノート

1学期間で使用したノートは気がつけばNo.10となっていた。これまでに、ここまでがむしゃらに勉強したことはない。これからの教員としての仕事において、辛いことがあったらこのノートを見返して、頑張っていきたいと思う。

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